老害が押し寄せる

老害」の言葉が広く浸透し、その波は我々を飲み込み、沈めていく。昨日まで老害に怯えていた(フリをした)人々も、明日は老害である。仕手と受手は容易に逆転し、その自覚がないままに、この災厄は加速していく。こうなると、老害とは何であるのか、ということよりも、老害と認定する行為自体に関心が集められる。老害は人災だ。ハザードマップを用意する人間もまた、この人災に侵されることになるだろう。

失われた空白

「でも————」という文句から会話の糸口を創り出す技術が、身近に蔓延っている。

誰もが知る通り、「でも」という言葉は逆接の意味を有すのであり、本来は前文に対して、文章を展開するために用いる。

しかし、「でも」「いや」という枕詞からでないと、話を始めることが難しい人は多いのだ。それが間違っているとは思わない。むしろ、相手の興味を惹きつけ、いきなり本題に入ることに伴う抵抗感や、会話の成立までの橋渡しとして、有用であろう。問題になるとすれば、そんな風に気を遣わないと会話を始めることが難しい関係性と文化の方だ。

前文がないのではなくて、気の置けない空気が、そこにないのだろう。

諸事情を勘案し、タイミングを見計らって要確認のこと

忖度という言葉は流行遅れか。

我が国には、グレーゾーンというか、所謂、”あそび”の部分を残すことで、柔軟性を維持しする文化がある。ビジネスの場においては、「***などをよく確認のうえ判断するように」「本件はセンシティブな内容だから、関係各所に配慮して行動するように」とかだ。個々人の関係における、「総合的に判断して***だ」「なんとなく***な気がする」みたいなのもそうかもしれない。

はっきりとした指示をしないのは、その過程で発生しうる無限のインシデントを考慮しきれないからであり、本音としては、責任追及を免れたい思いがあるから。

明確な意見を述べないのは、無知・非常識等がゆえに誤まった判断をすることを恐れるからで、本音としては、都合に応じて立場を変えられるようにしておきたいから。

いずれも相手が、発言者の期待に応え得る能力や感性の持ち主であれば、少なくとも建前としての部分については上手く機能するだろう。ただ、現代は著しい矛盾の中にあることを忘れてはならない。

上述のような人間の思惑がある一方でコンプライアンスや責任、根拠や情報開示を義務付ける社会的動向にあるのも事実。本音と建前が、個々人や事業者単位を飛び越え、大枠ではっきりとした違いを見せている。

こういう議論をするときにはしばしば、「アメリカでは***」みたいな、謎の西欧啓蒙論が蔓延るが、それにどれほどの説得力があるのか。大枠を変えるのは、小さな一個一個の事例・認識の蓄積だ。むしろ、「○○さんは***しているよ」と身近な例を挙げたほうが得心がいったりする。

 

身勝手な曖昧発生装置と化した怠惰な人々は、己の無責任に気づかないまま一生を終えるかもしれないが、生み出された曖昧は、核廃棄物のように禍根と矛盾を排出し、後世にまで二次災害を引き起こすのであるから、やはり今の世の中は、早いもの勝ちなのだろう。勝ち逃げできなくなった人類が、人工知能に抱かれて幻想に生きるのが得策、というディストピアに居場所を求めるであろうことは、想像に難くない。

マナーの根拠法

「薬を“人前で飲む”のはマナー違反? ネット上で物議…専門家に聞いた」(FNN PRIME)

 

マナーってなんだろう。法律以下の決め事なのに法律より注目されてますよね。

本当に人間は自由が苦手。ルールやしきたりや暗黙の了解で縛ってもらわないと安心できないわけで、ルールを知っていることを話題に盛り上がるなんて、ある種奴隷の鎖自慢ですよね。ネガティブな満足を味わうのは勝手だけれど、そんなごっこ遊びに全体を巻き込むのは遠慮願いたい。

マナーは作られたものです。作られ経緯は様々ですし、中には最初から、一部の人を爪弾きにするためにトラップとして生み出されたものもあるでしょう。しかし、マナーを主張する輩が、そのマナーが成立する要件・環境の制限を無視するのはどうなのか。

 

そのマナーはこの場合マナー違反ですよ。

あったはずの何か

ニュースの感想を書こうとすると、所謂社会的知識が大きく不足している事実に直面し、一度は覚えたことが思い出されないもどかしさに狼狽える。

受験勉強。たくさん覚えた事柄。10年もすれば大半を忘れてしまうだろう。どうにも納得いかないシステムだが、忘却の恩恵の方が大きいから、人類はこのシステムを採用したわけで、外付けHDDのように、ネットを介して情報を手に入れればいいだけなのだが、やはり不快である。

知識欲は、何に根差すものなのか。

知りたい、理解したい、という知的好奇心とはまた違う。データを少しでも多く自分という内臓メモリの中で保管・運用したいという欲求があるのだ。実際に、ネット環境がない状況でその方が便利、という言い訳も立つが、それだけだけなら、一人で書きつらねるブログ記事に言葉が出てこない程度のことは諦めるだろう。

人は所有したい生き物だ。所有権という概念が、文化・法律を生み、個人を作った。ハードでもソフトでも、同じこと。情報という公開されているリソースから、少しでも多くのものを取り入れないと損だ、と無意識で考えているのかもしれない。例えるなら、豆まきで降ってくる豆を少しでも多く集めたいと思うような、そんな感情。忘れてしまって感じるのは、不便さ以上に、あったはずのもの、会得したはずのものが消えたことに対する喪失感だ。

だが、記憶の恣意的管理が完全に可能となったならば、それはパンドラの箱でもある。本能的にシナプスを解除してきたリスキーな記憶を、浅はかな思い付きで呼び起こしてしまうことが、どれほど恐ろしいことか。PTSDは必ずつき纏う。セラピーで完全に解消できるレベルの未来ではどうか。その時代に、果たして自分が覚えていることの意義はあるのだろうか。

この悔しさだって、記憶の制御を受けることになる。

悪の報いはどこの先?

『「人間のできる仕事の範囲を越えている」当事者が語る“児童相談所”の実態』

(FNN PRIME)

 

官公庁のみならずの多くの業界が、程度の差こそあれ、人手不足にある。特に対象とする相手を考えれば、その精神的負担も察するに余りあるわけで、その点においては、感情論的には不遇だとも思う。

だが、無責任なことを言いたい。今回の例は、手続き的に間違っていないか?

忙しく、大変な仕事だからこそ、この手の業務にはマニュアルがある。マニュアル対応だと批判されることがあるが、職務規定に基づいて対応しないことの方が組織人として問題だろう。マニュアルに反して、誰が責任を取ることになるのか考えれば明白だ。

クレームなど特にそう。マニュアル、規定にない、所謂”穏便な””うまい”方法が暗黙の了解で求められている風土だが、極端な話、これは組織に対する反逆であり、ルール違反なわけで、本当に必要で合理的なら、ちゃんとクレーマーに対して便宜を図ることを明文化するべきなのだ。道義的な善悪なんて難しい問いかけをする前に、手続的に正しいことをするべきだと思うが、どうにも議論が飛躍している気がしてならない。

今回謝罪会見をした担当者は、恐らく手続き的に間違ったことをした。

保護者に脅されたら便宜を図っていい、なんて内規がないからだ。別途脅迫行為に伴う情状酌量等はあるだろうが、それは刑法・民法の話。ミクロの単位では、内規違反だ。

そして彼が負うべき責任はその一点でいい。社内で対処すれば終わりだ。それを外野が批判するなら、その矛先はタイトル通り、教育委員会になる。続いて、教育委員会への批判だが、当然に官庁として果たすべき義務を放棄したうえ、関節的には人命に損害を与えた可能性もあるので、それについて、出来得る限りの対策を立てるべき。だが、対策のために必要な財源・人材の確保ができない仕組みになっているのなら、それは監督省庁の責任になるわけで、さらに言えば、予算案等の問題。そして議会と議員の問題。

では、その議会に議員を送り出したのは誰ですか?

 

以下は純粋な感情論です。

罪人は加害者だけだ。職員の過失も環境も、そんなの言い訳にするべきではない。子供のアンケート用紙を見て逆上して殺すような人間が悪い。邪推だが、このアンケートを持ち出して上手に親と話をし、”上手く”虐待を解決した職員の美談を聞いたら、同じように批判されただろうか。結果論ではないのか?

責任の爆弾ゲーム、見ている人はその火を消そうとも思わない。

爆弾を誰かに抱えさせるのは、もう無理だ。

 

 

 

 

 

付加価値の衣

『田園調布で“偽ブランド販売”…「エルメスのバッグが7000円」男を逮捕』(FNN PRIME)

 

”ブランド”とは、作られたものであり、イメージの世界。それを手に取った人が思い入れを持ち、他の製品と差を見出していれば、偽ブランドは新しい”ブランド”になる。ただの詐欺・偽装犯罪ですが、この手の犯罪が取り上げられるうちは平和というか、豊かだと思う。

持ち物や装飾品、経歴に至るまで、ブランディングをしないと気が済まないのは、最低限満たされた人間の欲求段階。逆に、全ての商品・サービスが画一化された見方をされれば、経済発展はないわけで、マッチポンプではないけれど、偽ブランドという悪が参入することで、”本物志向”は強まり、適度な緊張感を持ってブランドが維持されていくという見方ができる。業界では、偽物が広まり、本物の価値を疑われる事態にまで陥っていると聞くが、本物の価値をそれで誤認するような人が多いということは、皮肉。

豚に真珠を貶すつもりはないが、真珠が溢れすぎた世の中に、豚が追い付けなくなっているのは事実なのであって、情報社会化も相まって、創られたものに振り回される人類が豚であることを見直す時代は、いつかやってくるだろう。

その時、豚は次なる”人類”にブランディングされる。