怯える怒りたち
怒りについて考えてみる。
怒りは危機感に発信される防御反応だ。
直接的に危ない目を見たとき、その相手方に怒る。また、社会的に見て自分の立場が貶められるような場合も、何かに怒りをぶつける。
前者はイメージしやすいと思う。
後者はどうだろう。
例として。店員の態度が悪いから怒る、というのは、「店員に見下されているように感じる」→「自分の立場が貶められている」→「地位を回復すべく怒る」という風に分解できるような気がする。そんな感じ。
なお、道具的に用いる「怒った”ふり”」は上記に該当しない。
さて、今日はクレームについて書きます。
昨今は珍しくない言葉ですね。でも、ひと昔前にはなかった言葉です。単純に、該当する場面が多いことから言葉のニーズが高まって市民権を得たのでしょう。
クレームと怒りは、本来似て非なるものです。
確かclaim(クレーム)という単語の原義は、”意見を強く主張する”みたいなものだったと記憶しています。実に日本的ですよね。意見の主張が感情論に直結しがちなところ。
自分の意見が批判されると、まるで自分の人格が否定されたように感じる人、多いですね。欧米基準で言えば、議論が劣っている、と指摘される点ですが、ここは欧米ではないですし、そもそも欧米なんて区画は便宜的に設定された概念なので、別に気にしないでいいと思う人もいるかもしれません。
脱線しました。
クレーム対応って難しいですね。本当に”ご意見”であるケースと、”怒り”のカモフラージュであるケース、及び恣意的な嫌がらせ等々。内容も様々。クレーム対応のマニュアル本や講習が市場には溢れていて、マイナスイメージのモノが経済価値を創造している様を見るのは、実に興味深いです。マッチポンプも可能かもしれない。
しかしながら、難しい理由はその論理武装や手順ではなく、クレームそれ自体だと思います。つまり、クレームが起こる時点で、マイナススタートに思われてしまう点です。
火のない所に煙は立たないと言いますか、とかくこの社会では、火をつけられた側にも失火責任があるかのように捉えられがちです。クレーム論破したところで、ボヤがあった事実を咎められます。だから多くのマニュアルは、「相手の共感を得ましょう」が中間目標に設定されているんですね。
クレームを”ご意見”と”その他”に分類して、前者以外は全力でねじ伏せてしまいたいですが、この発想もまた、”怒り”に近いものです。
少し人間的でない仮説ですが、市民社会にはメリットとデメリットがあり、クレームが後者だとして、それ以上に意識されていないメリットが反対勘定として存在しているから、クレームは生き残っているとも考えられないでしょうか。
カタルシスを倍増させるためのエッセンスだったりするのかも。
11*11、いい日。