諸事情を勘案し、タイミングを見計らって要確認のこと

忖度という言葉は流行遅れか。

我が国には、グレーゾーンというか、所謂、”あそび”の部分を残すことで、柔軟性を維持しする文化がある。ビジネスの場においては、「***などをよく確認のうえ判断するように」「本件はセンシティブな内容だから、関係各所に配慮して行動するように」とかだ。個々人の関係における、「総合的に判断して***だ」「なんとなく***な気がする」みたいなのもそうかもしれない。

はっきりとした指示をしないのは、その過程で発生しうる無限のインシデントを考慮しきれないからであり、本音としては、責任追及を免れたい思いがあるから。

明確な意見を述べないのは、無知・非常識等がゆえに誤まった判断をすることを恐れるからで、本音としては、都合に応じて立場を変えられるようにしておきたいから。

いずれも相手が、発言者の期待に応え得る能力や感性の持ち主であれば、少なくとも建前としての部分については上手く機能するだろう。ただ、現代は著しい矛盾の中にあることを忘れてはならない。

上述のような人間の思惑がある一方でコンプライアンスや責任、根拠や情報開示を義務付ける社会的動向にあるのも事実。本音と建前が、個々人や事業者単位を飛び越え、大枠ではっきりとした違いを見せている。

こういう議論をするときにはしばしば、「アメリカでは***」みたいな、謎の西欧啓蒙論が蔓延るが、それにどれほどの説得力があるのか。大枠を変えるのは、小さな一個一個の事例・認識の蓄積だ。むしろ、「○○さんは***しているよ」と身近な例を挙げたほうが得心がいったりする。

 

身勝手な曖昧発生装置と化した怠惰な人々は、己の無責任に気づかないまま一生を終えるかもしれないが、生み出された曖昧は、核廃棄物のように禍根と矛盾を排出し、後世にまで二次災害を引き起こすのであるから、やはり今の世の中は、早いもの勝ちなのだろう。勝ち逃げできなくなった人類が、人工知能に抱かれて幻想に生きるのが得策、というディストピアに居場所を求めるであろうことは、想像に難くない。