あったはずの何か

ニュースの感想を書こうとすると、所謂社会的知識が大きく不足している事実に直面し、一度は覚えたことが思い出されないもどかしさに狼狽える。

受験勉強。たくさん覚えた事柄。10年もすれば大半を忘れてしまうだろう。どうにも納得いかないシステムだが、忘却の恩恵の方が大きいから、人類はこのシステムを採用したわけで、外付けHDDのように、ネットを介して情報を手に入れればいいだけなのだが、やはり不快である。

知識欲は、何に根差すものなのか。

知りたい、理解したい、という知的好奇心とはまた違う。データを少しでも多く自分という内臓メモリの中で保管・運用したいという欲求があるのだ。実際に、ネット環境がない状況でその方が便利、という言い訳も立つが、それだけだけなら、一人で書きつらねるブログ記事に言葉が出てこない程度のことは諦めるだろう。

人は所有したい生き物だ。所有権という概念が、文化・法律を生み、個人を作った。ハードでもソフトでも、同じこと。情報という公開されているリソースから、少しでも多くのものを取り入れないと損だ、と無意識で考えているのかもしれない。例えるなら、豆まきで降ってくる豆を少しでも多く集めたいと思うような、そんな感情。忘れてしまって感じるのは、不便さ以上に、あったはずのもの、会得したはずのものが消えたことに対する喪失感だ。

だが、記憶の恣意的管理が完全に可能となったならば、それはパンドラの箱でもある。本能的にシナプスを解除してきたリスキーな記憶を、浅はかな思い付きで呼び起こしてしまうことが、どれほど恐ろしいことか。PTSDは必ずつき纏う。セラピーで完全に解消できるレベルの未来ではどうか。その時代に、果たして自分が覚えていることの意義はあるのだろうか。

この悔しさだって、記憶の制御を受けることになる。