スポーツはどこにある?

「周南・駅伝レース中に車がランナーに接触

官憲の力を投入して車道塞いで人を走らせるなんて慣習がそもそも変だと思うのですが、ルール上過失は100%車側にあるでしょう。車道で寝ている酔っ払いを轢くのとはわけが違いますが、車社会は車に厳しく制約を掛けることで成立している社会です。力を持つものが不利になるのは、目指すらしい設計ですよね。権力が暴走するのは自明の理なので、この仕組みは合理的なのかもしれない。

話を戻しますが、スポーツって崇高なんでしょうか。スポーツパーソン、及びファンの方々には失礼を承知で書きますが、スポーツの語源は元々”deportare(休養する、遊ぶ)”というラテン語にあると聞きます。スポーツを材料に経済振興を図ってきた背景は確かにあるでしょうけれど、他の事柄、例えばロックミュージックや現代アートと比べて、スポーツはなんだか贔屓されている気がします。スポーツ界隈に内包される種目ごとの格差とは性質の異なる贔屓です。

身体能力が高いことは、チーププレイが巧みであることは、何故褒められるべきものとされているのでしょうか。現代において、個人の筋力や運動神経が求められるシチュエーションは僅少でしょうし、チームプレイなんて、スポーツ以外の世界も当たり前に実演されています。会社勤めの人なら誰しもチームプレイヤーです。

”好きで”勝手に体力を消耗している人を何故労う必要があるのか。必要性は皆無です。我々はただただ、”好きで”応援し、尊敬し、譲歩するのだから。

Eスポーツが近代以前のスポーツと融和する時代は、まさに我々の恣意の変遷そのものであり、他の芸術とスポーツの違いを競争性でしか説明できないうちは、スポーツの幻想は排他的だろう。