嫌い嫌いも数奇のうち。

嫌いだ、と相手に口にすれば、それは明確な対立になる。好きなことは好きと言えばいいが、嫌いなことは嫌いと言わないほうがいい、そんな使い分けた理解を自ずとする。言霊という概念に照らせばわかりやすいが、嫌いだと発現することで自己暗示にかかり、ついには対象物の悪い所を抽出する色眼鏡を開発してしまう。宗教は最高の善を見つける恰好の手段だ。なぜなら、日常の理屈を無視した暗示を受け入れる体制が整うからであり、現実を変えるより、眼鏡を変えるほうがよほど容易だからだ。”好き”の音韻にもまた、その力がある。そして加筆するなら、人間は複合物である。嫌いな要素が目立っていても、好きな要素が隠れている可能性がある。一旦レッテル張りをしたら、好きな要素に触れる機会を自分から閉ざすことにもなる。

ただ、ここで掌返しに近い意見を述べるが、好き嫌いははっきりさせた方がいい。好きという感情の根底には、自分にとって都合のいい要素が目立つ相手を認識した、という科学的現実があるはずで、翻って、嫌いの根底には、自分にとって不都合な要素を優秀なる経験則と本能が見つけ出した、という事実があるからだ。無論、つけ入る輩はそれを利用するわけだが、こと”嫌い”のベクトルから、”好き”を探し出す作業は非効率だろうし、効用最大化関数の導出を諦めるなら、背理法的な分析は無駄だ。

なお最高の自己暗示は、”嫌い”を”好き”に変えてしまうこと。

つまり、精神的自殺だ。