閉じた世界の片隅で

皆が、プライベートスペースを勝ち取って、自分という輪郭を守るため、戦っています。万人の万人に対する闘争社会です。

大型トラックに乗っている人の気が大きくなるのは、プライベートスペースが拡大したことで力量を錯覚するからだ、なんて説ももっともらしく提唱されていますよね。

境界を欲するのは、人の性です。

文明は絶えず、境界を作り、進化しました。人種差別や戦争は、その副産物です。

言葉だってそうです。ある定義を決め、これに基づいて事象を切り取り、その他のモノと区別するのですからね。極論、知る、ということは、区別するということです。

 

今日は、紅茶について書きます。

この季節寒いので、よく電気ポットで湯を沸かして飲みます。

白湯も好きですが、贅沢感がありません。そこで、近所のスーパーにて安くて大量に小分けされている紅茶パックを買い求めました。確か100Pで398円(税込)でした。

贅沢=@4円/日。

でも、おいしくないんですよこれ。消費するために惰性で飲み続けるなんて、こんなネガティブな贅沢があってよいのだろうか。

 

そんな紅茶も残りあと10パック。月日が流れるのは早いもので、どうしようもなくセンチメンタルな、焦った気分にさせられる。

こんな支離滅裂な駄文を入力する間にも、何百秒も寿命が消えていく。

時間は平等に与えられ、平等に回収されている。

何のために生きていたいのか、考えることをサボり続けている。生命を哲学することは自殺と同義だから。

 

戦略的回避って本当ですか?