無理の理

自分で決めた限界は限界じゃないとしたら、無理というのが嘘つきの言葉なら、失敗こそが無理を教える唯一の母になる。しかし、その母と逢えるのは最初で最後になるかもしれないわけで、その子は結果論でしか無理がわからないなら、そんな危機察知能力の希薄な種族は生き残れないだろう。無理というのは、実に理性的な発見なのだ。意識の有無を問わず、思考して、試行して、できない理由を導出することなのだ。

確かに、やってみたらできた、ということはたくさんあるだろう。やって失敗して死んだ人は意見できないから、必然前者の声が大きくなる。でも、やってみてできた場合の効用と、やってしまって取り返しがつかなくなった場合の効用を比較衡量して取組を見直すことは、立派な選択ではなかろうか。石橋を叩いて渡らないのは本当に無意味な行為だろうか。石橋の叩き方が間違っていたかもしれない。なるほどリスクを取らねば前進しないというのは確かだ。しかし結局は結果論と程度問題。無理を説明できる人は、人生を前向きに生きている。ただ、進んではないだけだ。

無理っぽい、そんな直感を分析すると、無理を承知で、という孫も生まれる。