穴を掘ってセメントを流せ

日常に潜む恐怖。ルーティン作業のような毎日に限られた時間が奪われていく。本当は何人にも時間を奪うことなんてできないわけで、時間が自働的に流れている(主観的には、”失われている”)だけなのに、やるせなさが不意にやってくると、どうしようもない焦りを覚える。穴を掘って埋める作業は、自分の行為に意味が見いだせず、尊厳を著しく損なわせる。その背景には、時間が有限であるという前提条件があるだろう。

時間という資源が仮に無限であるならば、果たしてこれは拷問になり得るのか。幸か不幸か、現代には刺激的な体験が溢れている。だから余計に、時間を失ったことへの喪失感は強く、鋭く突き刺さる。

一方で、王道という言葉がある。使い古された表現ややり方が、一周回って優れていることを示す。国外に目を向けると、”classic"という単語は"古い"という原義から派生して、"一流の”という意味を表すらしい。人は主観でしか生きられない。時間と他の資源とには絶対的な違いがある。時間は人の意思に関わらず自動的に消費されていくのだ。恣意的に止めたり、人に譲渡したりできるほど可変的なものではない。時間の有限性に価値を見出すことは悪くないけれど、それが心理的圧力となるくらいなら、いっそ気張らず受動的に、時の流れに身を任せてはいかがか。