摘発される箱庭

誰も見ていないことをいいことに偏ったニュースネタを。

町田総合高校体罰暴力問題。

毎度ながらリンクを引っ張ってくるのは面倒なので省略します。

 

体罰問題については正直感想がないです。やってる教師はやってるだろうし、それ以上なんとも思えない。程度や経緯は当人にしかわからないから。ただ、この手の話題でよく言及される、教育者の人格問題については、一考の余地がある。

学校を卒業後に社会経験が極めて希薄な状態で教師となり、何年も、何十年もその立場のまま。そうなることを自ら選択して、教師となる、という事実。まあ普通ではない。異常者が異常者を培養するやばい環境なわけで、システムが異常を容認しているのだから、そこに集う面々を批判するのは焼け石に水

理不尽と不愉快と無力感。成長期にそれを噛みしめたのだから、思い出は強く残る。

今にして思えば————と、多くの人が感じていると思う。ある種、それで均衡が保たれている。自律した成人が何十人も集うクラスを、この”異常者”1人で螺子伏せられるか。無理だ。今の時代はただでさえ、こうした成人の介入が強くなってきている。イニシエーションだ。義務教育はこうした不条理なシステムを実感するための最初の通過儀礼だ。最終的に、それが生徒の生涯的な幸福にどのように寄与するかは統計がとれていないので、善悪も不明。きっと教師は大変だ。ただ、大変だから正しいわけではなくて、そのことを指摘しても改善案がないから無視するしかないのが現実。義務教育からの脱退を認めても、問題は解決しまい。それ自体は、多く国民が信頼している、もしくは依存しているものだから。

持論だが、個性をもった人間を1対1以上の比率で管理するなんて無理な設計なんだから、そこはサービスの質と対価のバランスで測るしかないでしょう。奴隷根性を鍛える恰好の訓練場を、無償で提供してくれているのさ。嫌な思い出を語り合うための材料を与えてくれるのさ。

さあ、みんなで少し不幸になろう。