解散総選挙はしない

『嵐の「活動休止」会見から臨床心理士が読み解いた、言外のメッセージとは?』

(文春オンライン)

 

この引用方法で理解してもらえる読者の方はいらっしゃるんだろうか。申し訳程度にカッコで表示された引用元に効力はあるのか。タイトルに著作権は発生しにくいというのは本当だろうか。いずれも読者がついたら考えればいいうちで、これを杞憂という。

アイドルグループの解散記事ほど興味がない記事もない。例え誰かが亡くなろうと復活しようと(後者は生理学的に好奇心Maxの話題だが)、その人物に興味がない限りただの文章です。例えば、死、とか、殺、とか、そういうショッキングな文言から受ける衝撃はあれど、テキスト以上の感動がない。だからこそ偶像(=idol)なのか。しかし私が興味ある事ばかりで記事が作成されたら大変です。仕事が手につかなくなってしまう。人によっては涙する記事が、私にとってはPCの電源を落とし小休止を挟む理由になる。ニュースという、一方的な情報発信の特徴。

余談の余談ですが、この見出しのせいで臨床心理士という肩書が胡散臭く聞こえる。

 

以上、国民的アイドルグループの記事本文を無視して一般論に終始すると非国民より。

 

 

凡人百面相

明石市長、辞職否定 市長選で「有権者の判断仰ぎたい」」(神戸新聞NEXT)

ニュースの8割が誰かを弾劾、批判する内容なのに疑問を感じないのが現代のすごいところですよね。瓦版の時代からそうだったのかな。

それはさておき、市長になるような人が、裏表なく馬鹿正直にやってきたわけがないだろうというのは言い過ぎでしょうか。それは勿論、人徳が評価され、上へ上へと祀り上げられる、それこそ奇跡のような人もおみえでしょうが、普通に考えて、例え役所であろうと、一つしかない座を得るのは競争です。市長選が始まる段階にはとっくに勝敗が決まっている、もっと深く、長い戦いの勝者として、彼は暴言を吐いたことを報道される身分になったのです。

誤解を恐れず言えば、パワハラもセクハラもいじめも殺人も起こりうるに決まっています。ただ、当たり前に起こることが、当たり前に正当ではない、ということはあらゆる事象において勘違いしてはいけない重要な点。

今回の記事、音声も公開され、なんとも高圧的で脅迫的な文句が際立っていましたが、選挙の時と態度が違う、なんて驚いているのは明らかに想像力の欠如ですよね。というか、選挙の時に不快な発言ばかりして嫌われるような意味不明な人は、本件以上にTPOを弁えていない可能性があります。

人間は3次元に生きているのだから、裏表があるのは当然、そこには奥行もある。二面性しかないような人種はマンネリで淘汰されてしまいます。多くの人から評価される人は、多くの人に合わせて評価される自分を演じているのであって、支持者が多いほど、人格の操作も大きい。かもしれません。

大統領も市長もヤクザもおばあちゃんもホームレスも、みんな同じ人間です。知能指数や運動能力の個体差だって、精々数倍の範囲でしょう。地球規模で考えれば、抑々同じ種族である人間同士が、超絶に優れているなんてことはないのです。この市長を擁護する気はないですが、行政を執行するのに行儀よくルール通りやってたら、1日24時間働いても終わりませんよ。お役所文化って揶揄されますが、誰も責任もって”お役所”を改革できないのに無理な要求ばかりすると、歪が生じるのは自然の摂理ではないかな。罵声を浴びたその瞬間、担当職員さんにも違う人格が生まれたはず。

不特定多数の主人公

『3人組YouTuberカリスマブラザーズ、解散を発表』(オリコン

 

youtuberという職業が急速に認知されている。半年位前は、職業がyoutuber、というのは冗談の一種として口にされていて、今でも同様のネタは聞かれるが、大分具体的な想像ができる冗談になってきた点で、社会的ムーブメントの最中にあることを実感する。

購入した食品、生活用品、はてはレジャー支出まで、動画投稿のためと主張できるように証憑書類を整備し申告をすれば、事業とみなされるのだろうから、副業禁止規定のないサラリーマンは、税控除を求め、こぞって始めるべきではないか。顔や住所を晒すリスクを恐れるなら、手先だけとか、商品だけを映せばいい。音声についても、合成音声を活用すればいい。一億総中流社会。大半の人が、その手間よりも多くの節税効果を得られるだろう。ポイントカードなんかよりよっぽど生産的だ。

高額納税youtuberにぶら下がるなんて、実に仕事(リアル)らしくていいじゃない。

 

 

ルーツが生えてくる

『「声優のアイコ」懲役10年確定へ』(時事通信社

 

異名、肩書、二つ名。カッコいいですよね。「***の○○○」みたいな言い回しは気を引くのに効果的。マサラタウンのサトシでさえ、なんだか背負っているものが大きくて奥行きのある人間に聞こえます。あたかも同格の”の”であるような、誇大なイメージ。

声優のアイコは、意図せず声優という職業への偏見と関心を集めたことでしょう。

人は肩書で生きています。本音でも建前でも、肩書のない人間はいません。何も勤務先や職業、役職名だけではなく、住所や性別、年齢だって、勝手に背負っています。そこに責任を自覚することはないけれど。生きることは、責任を負うことだ。その責任を愉しむことができる人が大人だ。そして社会は、大人になることを強要する。肩書のない幽霊は、子供の特権。曖昧な存在であることが許される奇跡の期間が、現代では短すぎる。複雑怪奇な人生なのだから、もっと漠然としていて、悩ましいことがあって当然なのに、なかったことにして、無理やりに大人に仕立て上げられる。だったらいっそ、自分の思う名を名乗り、自分の背負いたいものを誇るのが一興。

 

マサラタウンのサトシは、その名を口にするたび、輪郭を持ち、大人になってゆく。

 

 

摘発される箱庭

誰も見ていないことをいいことに偏ったニュースネタを。

町田総合高校体罰暴力問題。

毎度ながらリンクを引っ張ってくるのは面倒なので省略します。

 

体罰問題については正直感想がないです。やってる教師はやってるだろうし、それ以上なんとも思えない。程度や経緯は当人にしかわからないから。ただ、この手の話題でよく言及される、教育者の人格問題については、一考の余地がある。

学校を卒業後に社会経験が極めて希薄な状態で教師となり、何年も、何十年もその立場のまま。そうなることを自ら選択して、教師となる、という事実。まあ普通ではない。異常者が異常者を培養するやばい環境なわけで、システムが異常を容認しているのだから、そこに集う面々を批判するのは焼け石に水

理不尽と不愉快と無力感。成長期にそれを噛みしめたのだから、思い出は強く残る。

今にして思えば————と、多くの人が感じていると思う。ある種、それで均衡が保たれている。自律した成人が何十人も集うクラスを、この”異常者”1人で螺子伏せられるか。無理だ。今の時代はただでさえ、こうした成人の介入が強くなってきている。イニシエーションだ。義務教育はこうした不条理なシステムを実感するための最初の通過儀礼だ。最終的に、それが生徒の生涯的な幸福にどのように寄与するかは統計がとれていないので、善悪も不明。きっと教師は大変だ。ただ、大変だから正しいわけではなくて、そのことを指摘しても改善案がないから無視するしかないのが現実。義務教育からの脱退を認めても、問題は解決しまい。それ自体は、多く国民が信頼している、もしくは依存しているものだから。

持論だが、個性をもった人間を1対1以上の比率で管理するなんて無理な設計なんだから、そこはサービスの質と対価のバランスで測るしかないでしょう。奴隷根性を鍛える恰好の訓練場を、無償で提供してくれているのさ。嫌な思い出を語り合うための材料を与えてくれるのさ。

さあ、みんなで少し不幸になろう。

 

個人情報反故

不動産投資の電話が至るところからかかってくる昨今。電話番号をどこで入手したか尋ねると、所謂名簿業者でした。入手経路については知らないと。知ったことではない、という口調であったし、実際知ったことではないだろう。対価を払って契約に基づいて個人情報という商品を買ったのだから。例え盗品であろうと、金を払って買った時点で、悪意でないのなら堂々と所有権を主張するでしょう。

個人情報の保護に関する法律は、あらゆる業種業界に影響を与えすぎることを考慮してか、いくらか消極的だ。同意に代わる措置を取れば、本人から交渉しない限り、現行制度ではほぼ自由に個人情報を商品化できてしまう。そして情報を売られた個人も、内心腹立たしく思いつつ、何を根拠に同意したのかもはっきり思い出せず面倒になり、然るべき手続きに移行せず、どう考えても意味のない愚痴を電話口の相手と家族に漏らすだけ。少し頑張ったところで、名簿業者に苦情を入れる程度だろう。業者が”善意”で取扱いをやめたところで、転売禁止の特約でもない限り、一度発信された個人情報は至る所に拡散するに違いない。その収拾をつけるまでの義務を名簿業者に課そうとするなら、当初同意内容について法的解釈に基づく議論を行い、その次に損害賠償等の算定を行って、やっと裁判ができて、そのさらに後の話となる。

個人情報保護を徹底するなら、産廃と同じようにマニフェスト制にしてしまえばいい。

初めに情報を取得した業者Aは、販売先業者Bと契約し、転売を禁止して、適切に管理するようにする。情報を引継いだ業者Bは、A社との契約時に、情報の取得正当性、根拠を書面で確認し、もしも個人本人から求めがあれば、このプロセスについて説明義務を負うものとする。仮にA社の個人情報の取扱いに違法性があれば、B社は当然にその個人情報を破棄すべきであり、そのことに伴う損害賠償はA社がBに対して行う。要するに名簿業者排除法だ。しかしそんな法律はきっと整備されないので、登録者以外からの電話は無条件で着信拒否とするのがよいでしょう。

 

 

 

 

スポーツはどこにある?

「周南・駅伝レース中に車がランナーに接触

官憲の力を投入して車道塞いで人を走らせるなんて慣習がそもそも変だと思うのですが、ルール上過失は100%車側にあるでしょう。車道で寝ている酔っ払いを轢くのとはわけが違いますが、車社会は車に厳しく制約を掛けることで成立している社会です。力を持つものが不利になるのは、目指すらしい設計ですよね。権力が暴走するのは自明の理なので、この仕組みは合理的なのかもしれない。

話を戻しますが、スポーツって崇高なんでしょうか。スポーツパーソン、及びファンの方々には失礼を承知で書きますが、スポーツの語源は元々”deportare(休養する、遊ぶ)”というラテン語にあると聞きます。スポーツを材料に経済振興を図ってきた背景は確かにあるでしょうけれど、他の事柄、例えばロックミュージックや現代アートと比べて、スポーツはなんだか贔屓されている気がします。スポーツ界隈に内包される種目ごとの格差とは性質の異なる贔屓です。

身体能力が高いことは、チーププレイが巧みであることは、何故褒められるべきものとされているのでしょうか。現代において、個人の筋力や運動神経が求められるシチュエーションは僅少でしょうし、チームプレイなんて、スポーツ以外の世界も当たり前に実演されています。会社勤めの人なら誰しもチームプレイヤーです。

”好きで”勝手に体力を消耗している人を何故労う必要があるのか。必要性は皆無です。我々はただただ、”好きで”応援し、尊敬し、譲歩するのだから。

Eスポーツが近代以前のスポーツと融和する時代は、まさに我々の恣意の変遷そのものであり、他の芸術とスポーツの違いを競争性でしか説明できないうちは、スポーツの幻想は排他的だろう。